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堺の蔵元に生まれた鳥井駒吉は、36歳で当時大変難しいとされていた
「本格的国産ビールの製造」に挑戦。現在のアサヒビールの礎を築きました。
堺で紡がれた、彼の生涯の物語をお届けします。

鳥井駒吉と宅コ平

「澤亀」の広告(堺市立中央図書館所蔵)

●「澤龜」の広告
(堺市立中央図書館所蔵)

宅コ平

●宅コ平

鳥井駒吉は生涯を通じ実に多彩な事業にかかわったが、そのほとんどにともに名を連ねた一人の人物がいた。同じく堺の酒造家、宅コ平(嘉永元年(1848)〜昭和7年(1932))である。宅は当時、堺の酒造業においてはトップの地位にあった「澤龜の蔵元であった。鳥井の場合には父親が起こした酒造業を受け継ぎ、家業の歴史はまだ浅かったが、「澤龜」の蔵元は何代にも渡り引き継がれてきた、いわゆる名門である。宅自身は明治2年(1869)に先代(コ兵衛盛富)から「コ平」を襲名し家督を相続している。

鳥井と宅とが手を組んだ事業としては、明治16年の「堺精米会社」が最初とされる。原料米精白方法として蒸気力を導入し従来の足踏み方法を廃止、酒造米の大量供給を可能とし一般酒造家にたいへんな便益をもたらしたのである。

その後明治20年には、「共同醸造所」(後に堺酒造株式会社へと改組)を設立、また明治21年には市内大濱1丁に「旭館」を開設した(第3話「アサヒビールの名前の由来」参照)。旭館の敷地は大阪麦酒の吹田村醸造所に匹敵するほど広く、亭園は酒造業者をはじめ、政財界の名士たちの交際の場として当時の新聞などにも話題を提供する名園であった。

鳥井と宅の新規事業に対する情熱は明治22年創業の「有限責任大阪麦酒会社」でピークを迎える。15万円という資本金の大きさはもちろんのこと、近代的な設備を有し規模の面でもビール工場としては破格といわれた吹田村醸造所を建設するなど、まさに両名が手がけた事業の中で最大級といわれる所以がここにある。

阪堺鉄道を走った「和歌号」(南海電気鉄道(株)所蔵)

●阪堺鉄道を走った「和歌号」(南海電気鉄道(株)所蔵)

このほかにも二人が経営者として名を連ねた事業として、阪堺鉄道(明治18年)(現在の南海電鉄)、堺貯蓄銀行(明治26年)などがある。
酒造業に関する事業をきっかけに手を組んだ二人は、着実に財力や経営ノウハウを蓄積し、社会とよりかかわりの深い事業へと手を広げていったのである。
当時はどんな分野にも未知なる部分が多く、一人の力で起業することが難しかったことは容易に想像される。
そうした時代にあって、数々の事業を成功に導いた鳥井と宅は、経営者としての才覚に恵まれた絶妙のコンビであったといえよう。

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