堺の蔵元に生まれた鳥井駒吉は、36歳で当時大変難しいとされていた
「本格的国産ビールの製造」に挑戦。現在のアサヒビールの礎を築きました。
堺で紡がれた、彼の生涯の物語をお届けします。
アサヒビールの名前の由来
1892(明治25)年5月、大阪麦酒吹田村醸造所から出荷された待望の本格的国産ビールには「アサヒビール」という名前がつけられた。その「アサヒ」にこめられた思いは「輸入を防ぎ国産を興さん」(発売の挨拶状から)という創業の理念から、「日出づる国に生まれたビールへの誇りと、昇る朝日(旭日昇天)のごとき将来性、発展性を願ったもの」と語り継がれてきた。確かに思いはその通りであろうが、駒吉たちの念頭に「アサヒ」の名が浮かんだのには、もうひとつの、もっと素朴な理由があったのではないか?
南海本線堺駅の脇を流れる堅川沿い、堺事件(1868年に起きた土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件)の碑の横に旭橋の橋柱が一対残されている。このあたりで堅川と交わる旭川にかかる旭橋の名残だが、昭和30年に埋め立てられて川はない。
幕末に近い天保年間(1830年から40年にかけて)は飢饉と不況の時代であったが、その対策の意味もあって当時の堺奉行は堀川の開削や浚渫工事を熱心に行い、堺港周辺の開発が進んだ。
旭川をはさんで新地の西対岸になる旭橋西詰め一帯には善法寺(龍神堂が今でも残っている)や神明神社(前身は旭神社)が人を集め、旭(または朝日)の家という茶屋が繁盛した。
明治維新を経て善法寺は廃寺となり、神明神社は栄橋通に移転、旭の家もすでになくなっていたが、鳥井駒吉は港に面し風光明媚な上に、甲斐町の鳥井本店からもほど近いこの地に着目し、明治21年、財界仲間の宅コ平や松本重太郎たちと図って、政府高官や財界人との交遊を図る目的でクラブを開設し、旭館と名づけた。
駒吉とその仲間が旭館に集い、阪堺鉄道や大阪麦酒の発展について大いに語り合ったことは想像に難くない。
その前年に設立発起され、翌22年に駒吉が社長となって正式にスタートする大阪麦酒が、24年には吹田村醸造所でビールの醸造に着手するが、そのビールの名前として、「旭日昇天」の意味もめでたい上に、身近なあちこちに存在するアサヒが浮かんだのはごく自然のことであったろう。
ちなみに昭和24年に大日本麦酒が分割されてできた新会社の社名は、カタカナ表記に変わるまで朝日麦酒株式会社であったが、大阪麦酒時代の宣伝や挨拶状では、旭ビールと表記していた。駒吉にとってのアサヒは、やはり堺で馴染んだ旭でなくてはならなかったのだろう。
昭和5年の国道敷設工事で閉鎖されたが、旭館には4千坪とも言われる広大な庭があり、行楽の季節には、駒吉が弟妹の家族たちと一緒に、お花見や土筆狩りに興じたことが書き残されている。
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