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大阪府

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堺の蔵元に生まれた鳥井駒吉は、36歳で当時大変難しいとされていた
「本格的国産ビールの製造」に挑戦。現在のアサヒビールの礎を築きました。
堺で紡がれた、彼の生涯の物語をお届けします。

大阪麦酒初代社長・鳥井駒吉の生涯(後編)

堺の道筋

●明治30年代の商都・堺の道筋

鳥井駒吉は1889年11月5日、大阪麦酒初代社長に就任しビールの製造、発売に向けて腐心する一方、引き続き酒造業界でも活躍を続ける。1890年ごろになると酒造業では全国組織結成の動きが生まれ、駒吉自身の活動も堺から関西地区へ、そして全国へと広がっていった。1893年には全国酒造組合連合会が結成され、駒吉は大阪府代表の一人として参加し、常議員に選任された。その後、1896年には全国酒造組合連合会の副会長に就任し、1902年ごろまで日本の酒造業の発展に大きく貢献したのである。

そのほかにも駒吉は多くの公職に就いている。1880年に堺県会議員、1882年に大阪府会議員、1889年には堺市会議員に選出され、 1889〜92年と1895〜1905年には堺市参事会員といった公職を務めたのである。

創業当時の鳥井本店

●(左)山の口筋、(右)大道筋

また、駒吉は身内に対する面倒見のよいことでもよく知られていた。
母親をはじめ弟妹を大切にするとともに、一族の発展を心から願っていたとされる。 1893年10月には同族を総合した鳥井合名会社を設立し、家業的性格の強い酒造業に近代的な経営の仕組みを取り入れる一方、一族の絆をいっそう強固なものにしている。

鳥井駒吉の手がけた画

●鳥井駒吉の手がけた画。
「粋處(すいしょ)」の雅号が
右下に見える。

駒吉は、多数の事業から得た教訓として、「信為万事之本」(まことこそばんじのもといなり)の信条を大切にしていた。人と接する際に和の心を第一とし、そのために多彩な趣味を持ち、茶道は免許皆伝の腕前、俳句・和歌・書画を嗜み、自ら筆をとることも多かった。雅号は「半静(はんせい)」、晩年には「粋處(すいしょ)」と称し、玄人跣の作品を数多く残し、趣味の茶道具・美術品の収集にも熱心であった。 さらに、事業の利益は社会へ還元するという思想を実践し、本業以外の報酬は公共の寄付に費やすことが多かった。たとえば、1887年には堺港の海防事業に1000円もの寄付を行い、また日本赤十字社の大阪支部堺市委員として多額の寄付を実施するなど駒吉の公共的な事業への支援は枚挙にいとまがない。

創業17年目を迎えた1906年3月26日、大阪麦酒は日本麦酒、札幌麦酒と合併し国内屈指の大企業、大日本麦酒が誕生する。しかし、このころ駒吉は体調を崩し、大日本麦酒の社長就任を固辞したばかりか関係先の役職も辞するようになり、その後も快復することなく1909年5月24日、享年57歳にてこの世を去ったのである。生涯を通じ鳥井駒吉の信を重んじ、人を大事にする姿勢は変わることはなかった。

前編

すべては、お客様の「うまい」のために

ストップ!20歳未満飲酒・飲酒運転。
妊娠中や授乳期の飲酒は、胎児・乳児の発育に悪影響を与えるおそれがあります。
ほどよく、楽しく、いいお酒。のんだあとはリサイクル。