新世界が歴史に登場してくるのは、明治時代になってからです。「新世界興隆史」によると「明治初期は田や畑の連畝」だったようですが、明治半ば頃になると、大阪の人口も増えていき、今の新世界の北入口に近いところに「今宮商業倶楽部」(「偕楽園商業倶楽部」と称した)という、いわば博覧会の前身に近いものができてきます。料理をたべる所や談話室、温泉、舞台、玉突き場などの、一種の遊園地のような施設で、一大娯楽遊技場的でした。しかしわずか12年でその役割を終え、次の博覧会用地として大阪市に売り渡され。
そして開催された「第五回内国勧業博覧会」5ヵ月の間に530万余人の訪れ、最先端の技術の新製品や目新しい遊戯具に人々は驚き興奮し、大成功を収めました。その跡地に開発されたのが新世界エリアです。そして南半分にできた都市型遊園地 「ルナパーク」に、目玉として当時流行っていた展望台を造ることにし、ここに「通天閣」が完成。大阪市民にとって新世界は、正に「New World」でありました。
通天閣を中心に、南にルナ・パーク、芝居小屋や映画館等が軒を列ねて建ち、恵美須通には、飲食店が多く営業し、恵美須駅から人々の波が絶えませんでした。一帯はさながら世界各国のミニチュアの如く、アメリカ、フランスを始め東欧からアジアまでの雰囲気が味わえました。今のテーマパークの先駆けとなった言えます。

(1)「第五回内国勧業博覧会」 のポスター
(2)当時の通天閣 (3)当時の新世界 (4)朝日劇場

(1)通天閣火事の跡
(2)通天閣南本通商店街

1943年(昭和18年)1月 通天閣の下の「大橋座」から失火、通天閣にも燃え広がり、鉄骨が危険なほどむきだしになりました。当時、戦争下の日本は次第に追い詰められ、鉄骨資材に事欠く時でしたので、結局「通天閣」は解体されて、大砲や砲弾に供出されました。しかし、終戦のあとは復興の道のりをたどり、映画が一大ブームとなるなどし、人々の口に通天閣の再建が登り出しました。
そして、 1956年(昭和31年)10月26日、二代目「通天閣」が開業します。初代にくらべていろんな仕掛けが施され(それは訪れてのお楽しみ)高さも随分と高くなりました。また通天閣本通商店街及び南陽通商店街(ジャンジャン横町)にアーケードが新設され、1997年(平成9年)には、大正時代のラジウム温泉の再現を思わせる世界の大温泉「スパワールド」も開業。家族づれをはじめ若い男女が、一日遊べる娯楽場としての新世界の象徴となってきています。





















